クラシック音楽に出会うまでの長い道のり

[写真]渡辺俊幸氏NHK大河ドラマ「利家とまつ」など映画やテレビの世界で活躍する音楽家として、また交響的幻想曲「能登」の作曲家として知られる渡辺俊幸さん。3時間近いロングインタビューに応えていただいた内容を、2回に分けてお送りします。今回は渡辺さんの音楽遍歴についてのインタビュー記事。ポップスの世界で活躍していた渡辺さんのクラシックとの出会いは ……。

渡辺さんと音楽の最初の出会いはいつ頃のことでしたか?

物心もつかないうちから、音楽に興味を持っていたそうです。幼稚園の頃に自発的に「音楽を習いたい」と言い出し、ピアノを習い始めました。しかし、やってみると今度は練習が苦痛になってきて、小学1年の時に止めてしまいました。ピアノを止める条件として約束したソルフェージュだけは、母親から習いました。もちろん、興味のある曲について「こんなだったかな」とピアノで遊ぶことはよくやっていましたが、ピアノの正式なレッスンを受けたのは、幼稚園の時が最初で最後なんです。本当の意味での音楽との出会いはビートルズでした。たしか小学4年生の時のこと、テレビで流れる「ビートルズがやってくるヤア!ヤア!ヤア!」のCMに釘付けになってしまったんです。それからというもの、どうしてもドラムがやりたくなってしまって……。しばらくは板のようなものをドラムに見立てて叩いていましたが、どうしても本物がほしくて父親にねだったんです。しかし、返事は「ギターならいいがドラムはダメだ」。とうとう、自分の貯金をはたいてドラムを買ってしまいました。父親もとうとう諦めたのか、ドラムスクールに通うのを認めてくれました。小学校の高学年の頃のことです。

プロデビューは18歳ということですが。

ドラムをやるうち、プロになりたいという意識が強くなっていきました。中学時代にはバンドを組んで夏休みのプールサイドで演奏したり、ラジオ番組の作曲公募に応募して入選したり。高校は「ジャズがやれるところがある」という父親の勧めで青山学院高等部へ。同時に渋谷のドラムスクールや恵比寿の作編曲教室に通ったり。中学から高校にかけての数年間にも、森本レオさん、矢野顕子さん、スクールで知り合ってバンドを組んだ大学生たちなど、さまざまな人との出会いがありました。そして、高校を卒業する頃、フォークグループ「赤い鳥」のオーディションを受けて入団。青山学院大学入学とほぼ同時に、ドラマーとしてプロデビューしたのです。

プロの演奏家としての生活はどうでしたか?

念願のプロになれたのですが、実はほぼ同じ時期には、曲を作りたいという気持ちが強くなっていたんです。時々、父からコードを教えてもらったり、高3の頃に、恵比寿にできた作編曲教室に通ったり。「赤い鳥」で地方公演に出掛けた時には、昼間はホールのピアノで練習していました。作曲をやるならピアノは不可欠だと考えたからです。「赤い鳥」の最後のアルバムでは、3分の2くらいは私が書いた曲が選ばれました。編曲もメンバーに頼んでやらせてもらいました。うまくできたところ、未熟なところなどいろいろでしたが、これが私のプロの作編曲家としての初めての仕事です。

「赤い鳥」解散後しばらくは、同じ事務所の「ハイファイセット」や「グレープ」のバックバンドとして活動しました。そして、「グレープ」の解散コンサートのツアー中、さだまさしさんに「相談がある」と呼ばれたんです。「解散後しばらくしたら、独立することがあるかもしれない。その時は一緒にバンドを組まないか」。私も、さださんの音楽や詞には興味を持っていました。だからこう答えたんです。「ボクもさださんと仕事をしたい。でも、あたなはバンドではなく、ひとりでやるべき人だ」とね。

その後の渡米までの活動は?

さださんが独立してからは、プロデューサーとして、ステージのキーボード奏者として、そして編曲家として、3年近くを彼とともに過ごしました。この経験の中で編曲、とくにストリングスの厚みをどうつくっていくか、ということを学びました。海外でレコーディングを行う機会もありました。海外のアレンジャーに編曲を依頼し、送られてきたスコアから編曲の技法を学びとり、自分の編曲に活かす、といった勉強もできました。

私がクラシック音楽と出会うきっかけとなったのは、映画「未知との遭遇」です。アメリカでのレコーディングの合間、さださんはじめスタッフたちと息抜きとして見に行って、とにかく圧倒されてしまったんです。現代音楽的な技法を随所にちりばめながら、音の雄大さや厚みで見る人を映画の世界にのめり込ませる。映画館を出てから、「自分もこんな曲を書いてみたい」という思いが、徐々に、しかし自分では抑えられないほど大きくなっていきました。それまでほとんど独学に近い形で学んできた私にとって、フルオーケストラを駆使した曲を書くことは、遠い道のりにも思えました。どうしても音楽を体系づけて学ばなければならない。しかし、さださんとの仕事がうまく行っているからこそ、仕事を離れることは難しい。それでも、今やらなければという欲求は強い ……。

「今やらないと、そのうち限界がくるかもしれない。どうしても作曲を学びたい」。さださんの返事は、「わかった。でももう1枚だけ一緒にやろう」。さださん独立後4枚目となるアルバム「夢供養」を仕上げた後、ボストンのバークリー音楽院に向けて旅立つのです。1979年、24歳の時のことでした。

ボストンで得られたことは?

父親が作曲家で、幼少の頃には音楽教育を受けた経験があったにも関わらず、それまで私はクラシック音楽からは、最も遠い音楽の世界を生きていました。コンサートホールでクラシックの演奏を聴いた経験すらありませんでした。ところが、私が留学したボストンでは、クラシックが市民の生活の中でイキイキと息づいていたんです。たとえば、「昨晩のボストン交響楽団の演奏はよかったわよね」みたいな会話が、デパートの売場で交わされる。音楽を学んでいる日本人だと自己紹介すると、小澤征爾さんの話が必ず出る。一度くらいは聴きに行ってみようという、軽い気持ちでシンフォニーホールに出かけてみたんです。そして、そこで衝撃的としか言いようのない経験をすることになりました。まるで天空に舞い上がるような美しい音楽。こんな美しいストリングスがあったんだ! この時、自分の中に深く印象として刻まれたものが、今の自分につながる決定的な要素となっています。クラシック音楽に軸足を置きながら、多くの人々が音楽に喜びを感じてくれるような仕事をする、という私のスタンスは、この時の経験から来るものです。

渡辺さんが音楽の道に進むに当たって、お父様である作曲家の渡辺宙明さんの影響が少なくないようにも思いますが。

父親は私を作曲家にしたい、という思いを持っていたようです。ドラムではなくギターをという言葉にも、ドラムにはハーモニーもメロディもないから、曲を作る仕事につながらない、という考えがあったのかもしれません。しかし、私は父の考えとはまったく異なる方向に進んでしまったわけです。フォークやポップスといったクラシックから縁遠い道を歩んできた私が今、クラシック音楽のすばらしさを多くの人々に知ってもらいたいという思いを持ちつつ、作曲家として活動している。さまざまな人々、そして音楽との出会いが経て、今の私がいる。このことは、とても不思議なことだと思います。


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